砂町銀座商店街の歴史
第二次世界大戦が始まる前、昭和七年当時、通称 砂町平和会(会長岩瀬梅次郎 会員二十八名)と呼ばれていた小さな商店街であったが、新年会の折、来賓の地元の名士・宇田川敬輔先生が祝辞の中の提案で、当時、柳並木で有名な日本一の商店街「銀座通り」にふれて夢と希望を語られ、これに因んで「砂町銀座通り」と命名された。
焼野原となった戦後、関野和一会長の商店街復興の情熱と努力によって再生し、その後、臼杵歳雄初代理事長等の中興の力によって、今日の砂町銀座の基盤が成った。
爾来、天沼賞理事長等、関野喜一郎前理事長等が、二十一世紀をみつめ尽力をし、江東区はもとより日本全国にその名を知らしめ現在に至っている。
これを機に、永年懸案であった土地を西原氏の好意で買い受け、同時に老朽化した会館を新築し、守護神高平稲荷神社を太陽の光を燦々と拝する場所に修復して移し奉り、鳥居と寒銭箱を新たに供え置いた。
砂町銀座商店街の歩み
「砂町銀座」という名前が生まれたのは遡ること昭和7年、当時日本一の商店街であった銀座通り商店街に負けないようにとの思いを込めて命名されました。
戦前は30軒程度の小さな規模でしたが、これも昭和20年の東京大空襲で1度焦土と化し焼け野原に。
現在の形にまで復興を果たしたのはそれから18年後の昭和38年ごろのこと。
廉価な生鮮3品(野菜、肉、魚)を筆頭として、近隣住民と共に少しずつ発展していきます。
昭和50年代に入ると、大規模な公団住宅やマンション建設が進んで、周辺人口が一気に増加。この人口増加に伴って、様々な業態の店舗が増えていきました。
毎月10日に開催する「ばか値市」や8月上旬に3日間開催する七夕祭りなどイベントや催事も充実し、平日で約15000人、休日でのべ20000人ほどが訪れる活気ある商店街へと成長します。
砂町銀座商店街の特徴
この砂町銀座を限りなく愛し、今日の繁栄を夢みた幾多の先人の熱い努力の積み重ねをここに改めて感謝し、未来永劫に亘り砂町銀座の発展を守護されん事をここに謹んで祈願するものである。
祖父母の家に遊びに行くと、何だかホッとするような安心感を覚えた幼少期。
そんな感覚、誰しも経験があるのではないでしょうか。
決して気取らず、謙虚で、ニコニコと落ち着いている様は、圧倒的な包容力に満ち溢れていたように思います。
砂町銀座のアーチを一歩くぐると、どの店もおばあちゃん家のような暖かさで出迎えてくれます。
「AWAY」でなく「HOME」。
おかえりなさい、砂銀へ。
砂銀へ一歩足を踏み入れること=縁日の屋台で食べ歩く、そんな感覚。毎日がお祭り。焼き鳥に焼売、コロッケにシャーピン、焼きそばや口直しのフルーツまで、その日、その時に食べたいものがきっと見つかります。
まるで50年前の昭和時代へタイムスリップしたかのよう。しかしコンセプトや演出があるわけではない。砂町銀座のナチュラルな情景。あなたの懐かしさに出会える場所です。
お店の名物おばちゃんも大きなウリの1つ。初めて訪れたハズなのに常連のような距離感とトーク。ちょっと馴れ馴れしいけど、クセになる心地よさです。